備え有れば憂いなし

今回の原発の事故の推移をみてて、何が一番の失態かと思うかといえば、この手のトラブルに対する準備がほぼまったくなされてなかったことじゃないかと思うんですよね。今、アメリカの無人ロボットを使って原発内の様子を撮影したものがテレビで流れてますけど、こういうのは事故発生後一週間以内に自力でやってなきゃおかしいんじゃね?と、思うんですが。
原発は、津波を想定して一定規模の津波には耐えれる設計をしてたわけです。今回は、その想定を越える津波がきたってことなんですけど、これはまあ仕方ないと思います。いや、その想定を決定するプロセスが健全だったかどうかはおいといて、想定外の規模のものがくるのはしょうがないと。ただなあ、ここまでの津波には耐えられます!みたいな想定のもとでの安全確保以外に、理由はわかんないけど原発が事故っちゃった、さてどうしよう?というようなタイプの想定も当然しとくべきだろうと思うんですよね。
で、ニュースなんかみてると、原発の電源がダウンしたとうきにどうするか?という想定はしなくて良いです、というのが政府の原発行政の方針としてあったらしいじゃないですか。つまり、津波に対して、これだけの高さの壁をつくったから安全です!という方向の安全策はよいけど、原発が事故ったときにどういう準備をしとくべきか?という方向での安全策はダメです、ということなんじゃないのと思ってしまうんですが。というか、たぶんそうなんだろうな。
なぜそうなるかというと、国策?として原発を推進していくために”原発は安全”という建前がもっとも重要になっちゃてたんじゃないかな。原発が事故ったときの対策を考えるってことは、原発は100%安全ではないって認めることになるからダメ!みたいな。そいうアホみたいな倒錯に陥ってたんじゃないかと思うんだけど、どうなんだろう。当たらずとも遠からずだと思うんですが。


こういう、現実よりも建前が優先されるのは、多かれ少なかれ政治の世界ではあることだと思うんですけど、第二次世界大戦中の日本もこういう悪弊が強かった気します。”原発は安全”という建前が絶対視されちゃう精神性と、対米戦を考える会議において物的資源は日本はアメリカにかなわないが、日本には大和魂がある!とか言っちゃう精神性って、なんか根底で通じるものがあるんじゃね?っていうか。こういうのって美しい日本の伝統的精神なんですかね。まあ”日本人的”なるものがあるのかどうかよくわかりませんけど、誰か他の人に日本人的だよね〜と言われると、そうだよね〜と言ってしまうような気がします。