宗教について3

おとといの日記(2011-05-09 - 蛇作日記+)の続きです。
社会の授業の課題でたまたま読んだ仏教の入門書に思わず感銘をうけてしまった高校一年生の僕でした。何が琴線にふれたのかと考えてみるに、それ以前に僕がもってた仏教の教えのイメージというと、父母をうやまい先祖を大事にしましょうみたいな、ねむたいいわゆる世俗道徳的なものだったわけなんです。しかし本を読んで理解したところでは、仏教の真髄というのは実はそういう常識的道徳的なものとは違って、というかむしろそういう常識的な発想とはまったく相容れないものなんですよね。その真髄というのは何かというとそれはわからないわけですけど。ズコー。
まあそれは仕方ないです。それは論理的思考の結論として導かれる結論ではなくて、なんらかの修行?の末に到達する特別な認識というか精神状態というか、そういうもんかなあと思うんですが、それはお釈迦様にしかわからないんだと思うんですよ。でもまあ、お釈迦様はまわりの凡人達になんとかそれを伝えようと、いろいろたとえ話なんかを駆使して、本来言語では伝達不可能なものを伝える努力をしたわけです。まあ、最初のうちはそれでなにがしかのものが伝わって、原始仏教教団は大規模化したんだけど、知識ならば言葉にできるので、正しく継承していくことができるんだけど、本質は言葉では伝えられないので、代を経るごとに内容が劣化したり、いろんな他の民間信仰と混じったりして、ぐだぐだになっていった結果が現存してる仏教なんだろうな、と思ったわけです。
まあ、こんなこといったら、仏教ディスってんじゃねえよ、仏罰あてるぞ!って言われそうですけど。しかしまあ、当時の僕は「仏陀かっけー!」みたいになったんですよ。なんていうんですかね、神秘的な真理に到達してつ、かつその真理が凡人共には真に理解されてない的な?…。そうですね。まあ、冷静に分析してみるに、当時の僕の心理は中二病の発現の一例というのが正しいのかもしれません。
余談ですが、中二病、もしくは厨二病という言葉は最近ネットを中心によく見かけますが、その意味するところはかならずしも明確に定義されてないように思います。というか、言葉が広まるにつれ、意味も拡散して文脈によって異なる使われ方をし、場合によってはまったく逆のことを意味してる場合もある気がします。このあたりのことについて興味のあるところなので、そのうち厨二病について考察してみたいなあと思っています。
本題に戻ります。仏陀かっけー、と思ったのはもしかしたら、当時まわりではやっていた夢枕獏先生の伝奇小説の影響もあるかもしれませんね。こういうとさらに厨二病ぽくなってきましたが。キマイラシリーズとか闇狩り師シリーズとか。そういや夢枕先生には「上弦の月を喰べる獅子」という、もろに仏陀をモチーフにした厨二的(?)作品があった気がしますが、僕がこの作品を読んだのは仏教に目覚めたかなり後でした。

上弦の月を喰べる獅子 上 (ハヤカワ文庫 JA ユ 1-5)

上弦の月を喰べる獅子 上 (ハヤカワ文庫 JA ユ 1-5)

そんなこんなで、仏教からはじまって宗教全般に興味を持つようになり、高校のときは図書室にある宗教関係の本をずいぶん読んだのでした。特に原始仏教や原始キリスト教の教義に興味があったんですが、一方では新興宗教にも興味がありました。当時は大学における原理研究会統一教会)が社会問題になった後のことで、そういう新興宗教に批判的な本もあって、原始宗教に対するのとはまた違った興味があったんですよね。なぜ人はこんなペテンにひっかかるのか、ふふふ、宗教の真髄とはそういうものではないんだよっ!そういうノリだったのかもしれない。まさに思い返すと恥ずかしい感じが厨二的なんですけど。ええ。
まあしかし、厨二的感覚から宗教に興味を持つのは、ありがちなのかどうどうなんだろうか。天使と悪魔とか、あの辺りへ行くのありがちかもしれないけど、原始仏教とかを志向するのはけっこうユニークじゃないかなあ。その辺りは過去の自分を褒めてあげたい気持ちは少しあります。(つづく)